別居の話し合いの席で、夫が一枚の紙を差し出した。「離婚するときは財産分与も慰謝料も請求しない」「子どもの親権は自分が持つ」— そう書かれた合意書に、その場の空気に押されて署名した。数か月後、離婚の条件を弁護士に相談したところ、最初に聞かれたのは「その紙は、いつ、どういう話し合いの結果として書かれたものですか」だった。
※ 以下の場面は、ご相談に共通する要素をもとに構成した設例であり、特定の実在の事件ではありません。
先に結論を申し上げます。韓国法では、離婚が成立する前に「財産分与を請求しない」と署名した書面は、原則として効力を認められません。ただし「署名した紙はすべて紙くずになる」という話でもありません。どの条件が満たされたときに効き、どの条件が欠けたときに効かないのか — 韓国民法と大法院の判断は、そこに細かい線を引いています。この記事では、その線がどこに引かれているかを整理します。
この記事の要点
- 財産分与請求権は離婚が成立した時にはじめて発生するため、婚姻中の事前放棄は性質上許されない(大法院2016年1月25日付2015스451決定)。
- 「協議離婚することを前提に」交わした財産分与の合意は、協議離婚が成立しなければ条件不成就により効力が生じない(大法院2000年10月24日宣告99다33458判決)。
- 養育者・養育費・面会交流・親権の取り決めは、子の福利に反すると家庭法院が判断すれば、職権で是正・変更されうる(韓国民法第837条第3項・第5項、第909条第4項但書、第837条の2第3項)。
- ただし例外もある。財産の額・寄与度・分割方法まで協議した結果としての放棄であれば、「財産分与に関する協議」として扱われる余地がある。
- 書面が無効でも、財産が自動的に戻ってくるわけではない。別に手続を起こす必要があり、離婚した日から2年という期間が走る(第839条の2第3項)。
1. 「まだ発生していない権利」は、あらかじめ手放せない
韓国の財産分与は、協議離婚については民法第839条の2、裁判上の離婚についてはこれを準用する第843条に根拠があります。条文はこう始まります。
「協議上離婚した者の一方は、他の一方に対して財産分与を請求することができる」(第839条の2第1項)。
条文の主語は「離婚した者」です。ここが出発点になります。韓国法における財産分与請求権は、婚姻中からぼんやりと存在していて離婚で確定する、という構造ではありません。離婚が成立した時点で、法的効果としてはじめて発生すると理解されています。さらに、発生した後も、協議または家庭法院の審判によって具体化されるまでは、いくらの財産を対象にどの割合で分けるのかが決まっていません。
そうすると、婚姻中に「財産分与は請求しません」と書くことは、まだ生まれていない権利、それも中身が定まっていない権利を手放す約束をすることになります。大法院は、これを正面から扱いました。
大法院 2016年1月25日付 2015스451 決定(財産分与)
民法第839条の2に規定された財産分与制度は、婚姻中に夫婦双方の協力によって築いた実質的な共同財産を清算・分配することを主たる目的とするものであり、離婚による財産分与請求権は離婚が成立した時に法的効果としてはじめて発生するものであるうえ、協議または審判によって具体的内容が形成されるまでは範囲および内容が不明確・不確定であるため、具体的に権利が発生したということができない。したがって、協議または審判によって具体化されていない財産分与請求権を、婚姻が解消される前にあらかじめ放棄することは、性質上許されない。まだ離婚していない当事者が、将来協議上離婚することを合意する過程で、これを前提として財産分与請求権を放棄する書面を作成した場合、夫婦双方の協力によって形成された共同財産の全部を清算・分配しようとする意図で、財産分与の対象となる財産額、これに対する双方の寄与度および財産分与の方法などについて協議した結果、夫婦の一方が財産分与請求権を放棄するに至ったなどの事情がない限り、性質上許されない「財産分与請求権の事前放棄」にすぎないのであるから、たやすく「財産分与に関する協議」としての「放棄約定」とみてはならない。
読みどころは、最後の一文です。大法院は「放棄の書面はすべて無効だ」とは言っていません。言っているのは、「たやすく有効な協議とみてはならない」ということ、つまり原則と例外の順番です。原則は無効(事前放棄)、例外的に有効となりうるのは、財産の額・双方の寄与度・分割方法まで踏み込んで協議した結果として放棄に至った場合。この例外にあたるかどうかは、書面の文言そのものよりも、その紙が生まれるまでに何がどこまで話し合われたかによって判断されることになります。
なお、この決定が参照した先例として、大法院1999年4月9日宣告98다58016判決、大法院2003年3月25日宣告2002므1787、1794、1800判決が挙げられています。事前放棄を認めないという立場自体は、2016年に突然現れたものではありません。
2. 「協議離婚するなら」という前提が崩れると、合意ごと落ちる
もう一つ、日韓夫婦の事案で問題になりやすい判断があります。離婚前に交わした財産分与の合意は、多くの場合「これから協議離婚する」ことを当然の前提にしています。ところが実際には、話がまとまらず一方が離婚訴訟を起こす、あるいは逆に離婚しないまま婚姻が続く、ということが起こります。
大法院2000年10月24日宣告99다33458判決は、この場面について次のように整理しました。まだ離婚していない当事者が、将来協議上離婚することを約束し、これを前提として財産分与の協議をする場合、特別の事情がない限り、その協議は「協議上離婚が成立すること」を条件とする条件付きの意思表示と解される。したがって、約束どおり協議離婚が成立した場合に限って効力が生じるのであって、何らかの原因で協議離婚に至らず婚姻関係が存続することになった場合や、一方が提起した離婚請求の訴えによって裁判上の離婚(和解・調停による離婚を含む)がなされた場合には、条件不成就により効力が生じない。
同じ判決は、「財産の整理を先に済ませてから離婚する」という順序で約束していた事案についても、その趣旨は協議離婚の成否と無関係に財産を分けるというものではなく、協議離婚の成立を前提としたうえで、離婚を先にすると相手が約束を履行しない煩わしさが生じうるためにその順序を入れ替えたにすぎない、として、なお協議離婚の成立を条件とするものと判断しています。順番を入れ替えても、前提そのものは変わらないという見方です。
この判断は、両方向に働きます。署名させられた側にとっては、協議離婚が成立しなかったという事実そのものが意味を持ちうるということ。逆に、書面を用意した側にとっては、話し合いが訴訟に移った時点で、その紙が期待どおりに機能するとは限らないということです。
| 署名した書面の性格 | 韓国法上の原則的な扱い | 根拠 |
|---|---|---|
| 婚姻中に「財産分与は請求しない」とだけ書いた念書 | 性質上許されない「事前放棄」にあたり、効力を認めるべきでない | 民法第839条の2/2015스451 |
| 財産の額・寄与度・分割方法まで協議した結果としての放棄 | 「財産分与に関する協議」と評価される余地がある(例外) | 2015스451 |
| 協議離婚を前提とした合意 → その後、協議離婚が成立 | 条件成就により効力が生じる | 99다33458 |
| 協議離婚を前提とした合意 → 裁判上の離婚(和解・調停を含む)になった | 条件不成就により効力が生じない | 99다33458 |
| 協議離婚を前提とした合意 → 離婚せず婚姻が続いた | 条件不成就により効力が生じない | 99다33458 |
| 離婚が成立した後に交わした財産分与の協議 | 事前放棄の問題は生じない(別の枠組みで判断される) | 民法第839条の2第1項 |
※ 上表は制度の骨格を示したものです。個別の書面がどの行にあたるかは、作成の経緯・記載内容・その後の経過をあわせて判断されます。
3. 子どもに関する取り決めは、当事者の合意だけで確定しない
財産の話とは別に、合意書には「親権は父が持つ」「養育費は請求しない」「面会は求めない」といった条項が入っていることがよくあります。ここは、財産分与とはまた違う理由で、当事者の署名だけでは終わりません。韓国民法は、子どもに関する取り決めについて、家庭法院に介入する権限を明文で与えているからです。
| 取り決めの対象 | 家庭法院に与えられている権限 | 条文 |
|---|---|---|
| 養育者の決定・養育費の負担・面会交流の方法 | 協議が子の福利に反する場合、補正を命じ、または職権で養育に必要な事項を定める | 第837条第2項・第3項 |
| 同上(協議が成立しない場合) | 職権または当事者の請求により決定する | 第837条第4項 |
| いったん決まった養育に関する事項 | 子の福利のために必要と認めるとき、父・母・子・検事の請求または職権で変更しうる | 第837条第5項 |
| 親権者の指定 | 父母の協議が子の福利に反する場合、補正を命じ、または職権で親権者を定める | 第909条第4項但書 |
| 婚姻の取消し・裁判上の離婚・認知請求の訴えの場合 | 職権で親権者を定める | 第909条第5項 |
| 面会交流 | 子の福利のために必要なとき、請求または職権で制限・排除・変更しうる | 第837条の2第3項 |
条文が繰り返し置いている基準は一つ、「子の福利」です。父母が何に合意したかではなく、その内容が子どもにとってどうかが判断の軸になっています。第837条第3項は、家庭法院が子の意思・年齢、父母の財産状況その他の事情を参酌すると定めており、この参酌事情は2022年12月27日の改正で現在の形になりました。
さらに、韓国の協議離婚では、養育すべき子がいる場合、当事者は第837条による養育に関する協議書または家庭法院の審判正本を提出しなければならず(第836条の2第4項)、家庭法院は合意された養育費の内容を確認する養育費負担調書を作成します(同条第5項)。この調書の効力については家事訴訟法第41条が準用されます。つまり、子どもに関する部分は、当事者間の私的な紙で完結する設計になっていません。
もっとも、これは「合意書に何を書いても意味がない」ということとは違います。家庭法院が介入するのは子の福利に反すると判断される場合であり、父母の協議は第837条第1項が定めるとおり、まず尊重される出発点です。合意の内容がそのまま維持されることも、当然にあります。
4. では、署名した紙は無意味なのか — 四つの留保
ここまでを読んで「では署名は気にしなくてよい」と受け取られると、実際とはずれてしまいます。四つ、留保があります。
第一に、例外の入口が開いている点。2015스451決定の言い回しは「事情がない限り」です。財産の額、双方の寄与度、分割方法まで協議した結果としての放棄であれば、「財産分与に関する協議」として扱われる余地があります。どちら側から見ても、その紙が生まれるまでの経緯が争点になります。
第二に、離婚が成立した後の合意は別の話だという点。第839条の2第1項の主語が「協議上離婚した者」である以上、離婚後に交わされた財産分与の協議には、事前放棄という論点はそもそも生じません。同じような文面の紙でも、日付が離婚の前か後かで議論の土俵が変わります。
第三に、慰謝料は財産分与と性質が異なる点。裁判上の離婚に伴う損害賠償責任については、民法第843条が第806条を準用しています。財産分与(共同財産の清算)と慰謝料(有責行為に対する損害賠償)は根拠も性質も別であり、財産分与について述べた判断がそのまま慰謝料に及ぶとは限りません。一枚の合意書に両方が書かれている場合、それぞれ別々に評価されることになります。
第四に、書面の効力が否定されたとしても、財産が自動的に戻ってくるわけではない点。これが実務上いちばん大きい留保かもしれません。「あの念書は無効だ」という結論が得られても、それは出発点に戻るという意味であって、そこから改めて協議または家庭法院の審判で分割の内容を決めていく必要があります。そして、その手続には期限があります。
| 期限 | 起算点 | 内容 | 根拠 |
|---|---|---|---|
| 2年 | 離婚した日 | 財産分与請求権は、離婚した日から2年を経過したときに消滅する | 民法第839条の2第3項 |
| 1年/5年 | 取消原因を知った日/法律行為の日 | 財産分与請求権保全のための詐害行為取消しの訴えの提起期間 | 第839条の3第2項(第406条第2項準用) |
| 1か月/3か月 | 離婚の案内を受けた日 | 協議離婚の熟慮期間(養育すべき子がいる場合は3か月) | 第836条の2第2項 |
合意書に署名したまま時間が経っている場合、最初に確認すべきなのは書面の中身ではなく、この期間がどこまで進んでいるかであることも少なくありません。
5. 日韓夫婦の場合に、もう一段増えるもの
日本人配偶者と韓国人配偶者の間で交わされた書面には、国内の夫婦にはない論点が重なります。
まず、どちらの国の裁判所が判断するのか。韓国の国際私法第56条は婚姻関係事件の特別管轄を定めており、当事者の常居所や国籍などの要素によって韓国の裁判所が管轄をもつ場合があります。日本にも日本の管轄規定があり、両国の要件を同時に満たす状況は珍しくありません。
次に、どちらの国の法律で判断するのか。韓国の国際私法第66条は、離婚について第64条を準用する形で準拠法を定めています。日本で作成され、日本語で書かれ、日本の様式に沿った合意書であっても、韓国の裁判所で韓国法が適用される場面では、これまで述べた第839条の2や第837条の枠組みで評価されることになります。逆に、日本の裁判所で日本法が適用される場面では、日本法の議論に従うことになります。日本法についてのご判断は、日本の弁護士にご確認ください。
さらに、一方の国で先に手続が進んでいる場合や、すでに外国の裁判が存在する場合には、その裁判の承認・効力という別の論点が加わります。同じ一枚の紙をめぐって、管轄・準拠法・承認という三つの問いが同時に立つ — これが日韓事案の実際です。書面の文言だけを見て結論を出せる場面は、あまり多くありません。
署名してしまった書面について、ご相談ください
汝諧法律事務所は、日本にお住まいの方からのご相談をLINEで承っています。日本語でご事情をお送りください。すでに署名した後の段階でも、その書面がどの枠組みで評価されるのか、期間がどこまで進んでいるのかを確認するところから始められます。
よくあるご質問
Q1. 婚姻中に「離婚しても財産分与は請求しない」と署名しました。もう請求できないのでしょうか。
必ずしもそうではありません。大法院2016年1月25日付2015스451決定は、離婚による財産分与請求権は離婚が成立した時にはじめて発生し、協議または審判によって具体化されるまでは範囲・内容が不明確であるため、婚姻が解消される前にあらかじめ放棄することは性質上許されないとしています。同決定は、そのような書面をたやすく「財産分与に関する協議」としての放棄約定とみてはならないとも述べています。ただし、財産の額・双方の寄与度・分割方法などについて協議した結果として放棄に至ったといえる事情がある場合は別に扱われる余地があり、評価は個別の経緯によります。
Q2. 協議離婚することを前提に財産分与の合意をしましたが、結局は裁判での離婚になりました。合意は生きていますか。
大法院2000年10月24日宣告99다33458判決は、まだ離婚していない当事者が将来協議上離婚することを約束し、これを前提として財産分与の協議をした場合、特別の事情がない限り、協議上離婚の成立を条件とする条件付きの意思表示と解されるとしています。そのうえで、協議上離婚に至らず婚姻関係が存続した場合や、一方が提起した離婚請求の訴えによって裁判上の離婚(和解・調停による離婚を含む)がなされた場合には、条件不成就により効力が生じないとしました。実際の事案でどう評価されるかは、合意の文言と当時の事情によって判断されます。
Q3. 合意書に「養育費は請求しない」「親権は相手が持つ」と書いてあります。そのとおりになりますか。
韓国民法第837条第3項は、養育に関する父母の協議が子の福利に反する場合、家庭法院が補正を命じ、または職権で子の意思・年齢や父母の財産状況その他の事情を参酌して養育に必要な事項を定めると規定しています。同条第5項は、子の福利のために必要と認めるときは、父・母・子・検事の請求または職権で養育に関する事項を変更しうるとしています。親権者についても、第909条第4項但書が、父母の協議が子の福利に反する場合に家庭法院が補正を命じ、または職権で定めると規定しています。当事者の合意はまず尊重される出発点ですが、それだけで確定するものではありません。
Q4. 日本で、日本語の書式で作成した離婚合意書です。韓国でも同じように扱われますか。
どこで作成されたかだけで決まるものではありません。韓国の国際私法第56条が婚姻関係事件の特別管轄を、第66条が第64条を準用する形で離婚の準拠法を定めており、韓国の裁判所が管轄をもち韓国法が適用される場面では、民法第839条の2や第837条の枠組みで評価されることになります。どの国の裁判所で、どの国の法により判断されるかは、当事者の常居所・国籍・財産の所在などによって変わります。日本法についてのご判断は、日本の弁護士にご確認ください。
Q5. 合意書の効力が否定されれば、財産は戻ってくるのですか。
書面の効力が認められないという結論は、財産分与の議論が出発点に戻るという意味であり、それ自体で分割の内容が決まるわけではありません。改めて協議または家庭法院の審判によって、対象となる財産と分割の額・方法を定めていくことになります。その際、民法第839条の2第3項により、財産分与請求権は離婚した日から2年を経過したときに消滅します。手続の数も、要する期間も、書面がなかった場合より増えることが通常です。
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本記事は韓国法の一般的な説明であり、個別事案に対する法的助言ではありません。日本法に関する記述は比較のための一般的な参考であり、日本法についてのご判断は日本の弁護士にご確認ください。記載した判例・条文は執筆時点のものです。実際のご判断にあたっては、必ず個別にご相談ください。
